法華寺(ほっけじ)

※写真提供:諏訪市観光課・長野県観光協会 法華寺

法華寺

法華寺は、諏訪大社上社のすぐそばに佇んでいます。
立ち寄られる方は少ないものの、実は「赤穂浪士」の事件や「本能寺の変」にもかかわる舞台となった場所。
諏訪大社上社に参拝の折には、ぜひ訪れてみたい場所のひとつです。

 

元禄15(1702)年12月14日、赤穂浪士大石内蔵助らの吉良邸襲撃によって打たれた吉良上野介義久の養子、左兵衛義周は、高島藩に流罪となり、南之丸で3年を過したが、病弱のため22歳で亡くなりました。
諏訪市中洲の法華寺が遺骸を引き取り墓を建てたものです。
平安時代建立の法華寺は、諏訪大社上社の神宮寺に準ずる地位にあり、織田信長も武田氏征服の途次に滞在、多くの貴重な文化財があったが、平成11年に焼失、現在は新しい本堂が建てられています。


法華寺

鷲峰山(しゅうぶせん)法華寺は、元々、天台宗の寺であったが、鎌倉時代に領主・蓮仏入道盛重が中興し、建長寺蘭渓道隆を招いて臨済宗に改めたといい、諏訪大社上社神宮寺であった法華寺は、往時は七堂伽藍が揃った規模の大きな寺院であったといわれる。
甲斐武田氏追討のために高遠城を落した織田信長の嫡男・信忠の率いる軍勢は、天正10年(1582年) 3月 3日、諏訪に入り、武田氏が崇拝していた諏訪大社上社本宮を焼き討ちにし、上社本宮の社殿等は全て灰燼と帰してしまうが、その際、隣接する法華寺は類焼を免れている。
3月11日、織田の軍勢に追いつめられた武田勝頼・信勝父子が田野の地で自害し、甲斐武田氏が滅亡すると、19日に信長自らが上諏訪に入り、しばらくの間、この法華寺に本陣を置いた。
盟友であり、武田氏討伐戦に加わっていた家康公は、信長と会見すべく、この法華寺を訪れている。
法華寺には信長の諸将が集結し、信長はここで論功行賞を行ない、武田氏滅亡後の知行割をして甲斐・信濃両国などの支配を定め、家康公には信長より駿河一国が与えられている。
なお、一説では、この時、信長の家臣である明智光秀は信長の怒りに触れ、居並ぶ諸将の面前で、欄干に頭を押し付けられて殴られるという辱めを受けたといわれる。
この後、信長は 4月 2日に諏訪を発ち、翌日、甲府入りしているが、10日には甲府を出発、家康公の歓待を受けながら、居城である安土城へと東海道を帰っていった(4月21日安土着)。
しかし、それから 2ヶ月も経たない 6月 2日未明、信長は京都本能寺において光秀にあっけなく殺されてしまう(本能寺の変)。
ここ法華寺での信長の光秀に対する処遇がその原因の 1つであったともいわれている。
また、法華寺には、忠臣蔵・赤穂義士の討入で有名な吉良上野介義央の外孫で、のちに養嗣子になった義周の墓がある。
義周は討入の翌年、元禄16年(1703) 2月に、赤穂の浪人が討入った折に防戦につとめながらも、その働きが武士らしくなかったとして幕府より咎めを受け、領地を召し上げられ、江戸時代、流刑の地となっていた諏訪の地へ流されることになった。
諏訪高島藩にお預けの身となった義周は、高島城南の丸におかれたが、3年後の宝永 3年(1706) 1月20日に病気のために死去、幕府の検死後、断絶した吉良家に義周の遺骸を引き取る者はおらず、幕府より死体取り捨ての沙汰を受け、この法華寺に土葬されたとのことである。


 

法華寺の吉良義周の墓
吉良義周の墓

吉良義周の墓は今も吉良町の有志によって慰霊祭が行われています。
吉良義周の墓には、吉良町の有志によるメッセージ板が立てられており、その内容は結構過激であったりします。
(メッセージ板より)
吉良義周公に捧ぐ
吉良義周公未だ赦されず。
ひとり寂しくここに眠る。
公は上杉綱憲(吉良上野介長男)の第二子として生をうけ、五歳にして上野介嗣子(あとつぎ)として吉良家の人となった。
名門の血を継ぎ、優れた才能を持ち、将来を期待された義周公に突然不幸が襲った。
元禄事件である。
世論に圧されて、いわれなき無念の罪を背負い、配流された先でつぎつぎに肉親の死を知り、悶々のうちに若き命を終えた。
公よ、あなたは元禄事件最大の被害者であった。
しかし、ここに幽閉の二年有余、高島藩主忠虎公をはじめ藩の手厚いご対応、また当法華寺十一世春巌和尚の温かいご配慮に、われら吉良町民はせめてもの慰みを覚えるのである。
公よ、安らかに眠り給え。
平成六年六月吉日  吉良町

 

本能寺の変への舞台

天正10年(1582年)、高遠城を落とした織田軍勢はそのまま北上し諏訪大社上社本宮を焼き討ち、類焼を免れた法華寺は本陣となり武田家滅亡後の論功行賞が行われました。
その際、織田信長が明智光秀を叱責し、面目を失った光秀が本能寺の変へと導いたとも伝えられています。

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法華寺

法華寺外観法華寺写真2法華寺写真3

法華寺は諏訪大社上社本宮の神宮寺の宮寺の1つです。

元禄15(1702)年12月14日、赤穂浪士大石内蔵助らの吉良邸襲撃によって打たれた吉良上野介義久の養子、左兵衛義周は、高島藩に流罪となり、南之丸で3年を過したが、病弱のため22歳で亡くなりました。
諏訪市中洲の法華寺が遺骸を引き取り墓を建てたものです。
平安時代建立の法華寺は、諏訪大社上社の神宮寺に準ずる地位にあり、織田信長も武田氏征服の途次に滞在、多くの貴重な文化財があったが、平成11年に焼失、現在は新しい本堂が建てられています。
※お問い合わせ先:諏訪市観光協会 0266-52-4141

住所諏訪市中洲神宮寺856
電話0266-52-4141