正願寺

正願寺

正願寺

正願寺は、正式には桑原山不断院正願寺といい、つつじやあじさい、ふじなど四季折々の花が楽しめるところから「花のお寺」として知られています。
創建については不明だが、室町後期から安土桃山時代にかけて甲州や信州の寺々を創建・再興した岌往(ぎゅうおう)上人が永禄5年(1562年)に再興したとされています。
両側にあじさいが植栽された参道を行くと山門があり、その先に本殿があり、本殿に向かって左側に曽良の「ゑりわ里て古き住家の月見かな」の句が彫られた曽良記念碑が建ち、そこから本殿裏手に廻ると辞世の句「春に我乞食やめても筑紫かな」を刻む曽良の墓があります。
墓を建立した河西周徳(1695年~1753年)は、曽良の養父となった徳左衛門の子で、曽良の甥にあたります。
正願寺には、曽良と同郷の作家新田次郎ら著名人の墓があるほか、「おくのほそ道」の旅で曽良が使用したとされる「笈」や愛用の「文台」、「すずり箱」が保存されている。(公開はされていません。)


正願寺

 

【河合曽良】 かわい・そら

   慶安2(1649)年-宝永7(1710)年 上諏訪宿(上諏訪町)生まれ(現・諏訪市諏訪2丁目)
江戸前期の俳人で上諏訪の高野七兵衛の子として生まれたという。
親戚の福島村(現・諏訪市中洲福島)岩波家の養子に入ったが、養父母の死にあい、伯父といわれる大智院住職良成をたよって伊勢長島に移り住み、長島藩に仕官したと伝えられる。
33歳ころ浪人して江戸に出、神道と和歌を学んだといわれている。
このころ俳人・松尾芭蕉に入門、深川の芭蕉庵近くに住み、芭蕉の日常生活を助けた。
こうした縁で、貞享4年(1687)芭蕉の『鹿島詣』に随行した。
~ ももひきや一花摺の萩衣 (『鹿島詣』)~
40歳で剃髪、宗悟と改名、41歳のとき、芭蕉の『おくのほそ道』に随行。
旅の記録(「曽良旅日記」「奥の細道随行日記」などと呼ばれている)を著し、『おくのほそ道』の貴重な研究資料となっている。
~ 卯の花に兼房みゆる白毛かな (『おくのほそ道』)~
宝永6年(1709)には幕府巡見使の用人に加えられ、翌年壱岐島に赴いたが、病のため勝本の中藤家で亡くなった。
~ ことし我乞食やめてもつくし哉 (辞世句)~
元禄15年の更科行脚以外、諏訪にはほとんど滞在することがなかったが、後世まで多くの諏訪の俳人たちに慕われた。
特に曽良の姉の子を娶った河西周徳は、生涯曽良研究に携わり、『ゆきまるけ』という遺稿集にまとめた。
なお、曽良の名前は、長島藩に出仕していたころ、その地が木曽川と長良川に挟まれていたことに因むともいわれる。
曽良の業績をより多くの人に知ってほしいとの願いを込め、曽良の300回忌を記念して銅像が建立されています。

 

【新田次郎】 にった・じろう

長野県諏訪郡上諏訪町(現:諏訪市)角間新田(かくましんでん)に次男として生まれる。
ペンネームは“新田の次男坊”から(「しんでん」を「にった」と読み替え)。
墓地の中を流れる小川の赤い欄干を渡った先、小豆色の安山岩に「春風や次郎の夢のまだつづく 新田次郎」と刻まれてあります。
こっそり拓本をとる人が後を絶たず、拭いても拭いても墨で真っ黒でと夫人の藤原てい(「流れる星は生きている」の作家)を苦笑させた新田次郎の墓があります。

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正願寺

正願寺外観正願寺写真2正願寺写真3

四季折々の花が楽しめることから「花のお寺」として有名。

奥まった路地に寺町の風情が色濃く、寺域内に角間川が流れる。あじさい寺、花の寺の通称で親しまれています。
草創は不明だが、永禄5(1562)年、岌往上人により中興開山され、念仏信仰の中心として栄えたものです。
境内には芭蕉門下の俳人河合曽良や作家の新田次郎らの墓があり曽良の墓には「春に我乞食やめても筑紫かな」の辞世の句があり、寺には奥の細道に携行された笈等の遺品も保存されています。
※お問い合わせ先:諏訪市観光協会 0266-52-4141

住所諏訪市岡村1-15-3
電話0266-52-4141